Tokyo 7th Sisters Episode 6.0 Finalによせて

 おばんです。

 先日、映画が公開され腰が重たい私は、最終日に見に行った。そこで一度やる気が起きて4話まで読みまた放置。そして昨日、BDを購入するも家に再生機器がなく、人の家で再生させてもらい機運が高まったので、えいやと最終話まで読み切った。

 6/27に見終わったテンションで読み切って、とりあえずありがとうという気持ちと、本当に糞みたいな不正義が横行する世の中を少しでも良くして、より良い仲間を作っていけるようにすることが10代や20代の人々よりもほんの少しだけ先の道を行くもう少しで30を迎えようとする私ができることかなと思った。と同時に、私自身は今博士課程の学生でおそらく研究を続けようとする誰もが「なんで研究するの?」ということを一度は思うことだろうけど、政治理論をやるならば「誰かにより良い世界を見つけていくための武器を渡したい」ということを思い出した。

 読み切って思ったことは、それとここから解釈される余地なんてほぼなく真っすぐに伝わるもので書くことなんてないじゃん、って思ったし、あの大ボリュームをまだまだ咀嚼しきれていないというのが正直なところだけれども、つらつらと書いていこうかなと思った次第。

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 さて、6.0でとりたてて取り上げるべき事柄は次のことだろう。それは正しいことや間違っていることという規範的な基準に従うことではなく、どのようにして先へ進むのか、そしてそのために未来(あした)、世界を信じることができるのか、ということだろう。

 私はかつて4.0に関して覚書きをしたときに次のように書いた。

だからといって、777☆Sistersが選んだ道も優しいわけではない。私たちはたしかに「今ここ」にいるかもしれない。しかし、ここまで歩んできた道は見えているだろうか、途切れ途切れではないだろうか。そして途切れていたとしても、歩んできたんだ、というその身体の感覚、記憶があればいいというかもしれない。しかし、私たちはその感覚や記憶をどこまで保っていられるのか。今や疲弊し、消尽しかかっている。そして、先を行くものたちの光が見えるか。あるいは先を行くものたちの真っ直ぐな光は強すぎて逆光で前が見えなくなっていないか。

 最も不幸なのは、この二つの道の手前で立ちすくんでしまう人々である。倒錯性を貫くほどの勇気もなく、今ここを信じるだけの他者関係も何もない人間はどうするべきなのか。777☆Sistersの道の厳しさの一つは、世界や他者との紐帯である信が途切れてしまっているにも関わらず、その信をどうにか再建しなければならないことである。

  ここで私が意識していたのは多くの人が好んで論じようとするジル・ドゥルーズの「世界を信じること」に関する議論である。『シネマ2』では次のように論じられている。

耐え難いものとは、ある重大な不正などではなく、日常の凡庸さという恒久的な状態なのである。人間は、彼が耐え難いものを感じ、自分が身動きできないのを感じているような世界と、彼自身、別の一世界をなしてはいない。精神的自動装置は、賢者の心的状況の中にあり、この見者は反応することができないので、つまり思考することができないので、なおさらよく見、遠くまで見るのだ。それなら微妙な出口とはどんなものか。別の世界を信じることではなく、人間と世界の絆、愛あるいは生を信じること、不可能なことを信じ、それでも思考されることしかできない思考不可能なものを信じるようにして、それらを信じることだ。

『シネマ2』p.237  

 

引き裂かれるのは、人間と世界との絆である。そうならば、この絆こそが信頼の対象とならなければならない。それは信仰においてしか取り戻すことのできない不可能なものである。信頼はもはや別の世界、あるいは変化した世界にむけあれるのではない。人間は純粋な光学的音声的状況の中にいるようにして、世界の中にいる。人間から剥奪された反応は、ただ信頼によってのみ取り返しがつく。…キリスト教徒であれ、無神論者であれ、われわれの普遍化した分裂症において、われわれはこの世界を信じる理由を必要とする。

『シネマ2』p.240

  ここでドゥルーズが想定している世界と人間との間の絆の断裂や耐え難い状況をそのままそっくり適用できるわけではないし、ここでこの詳細な議論をするつもりもない(1)。しかし、表面上彼の言葉を借りるならば、思い当たることも多いのではないだろうか。今回の6.0でテーマとなったようなナナスタのみではどうもできないような金と権力によって作り上げられた巨大な資本主義システムの一つや彼女を享楽的に消費しようとする大衆たち、また私たちがいま生きる社会にもこうした耐え難い状況は多々あるのではなかろうか。そうした状況は春日部ハルと四ッ倉ナツミとの間のように、かつての春日部ハルと天神ネロとの間のように、そして777☆シスターズと社会や市場というように深い深い断絶をもたらしていく。

 こうした深い世界との断絶という「現実」を前にして、また新たに世界を信じること、きっとより良い未来(あした)が来ることを信じることを徹底して描こうとしたのが6.0であり、これまでのナナシスの物語であったように思われる。

 世界を信じること、先へ進むこと。

 ただ私たちはこれらの問いの間をずっとぐるぐる回っているだけのようにも思えてならない。先へ進むためには、世界や他者を信じなければならない。世界や他者を信じるためには、先へ進まなければならない。

 これはこの物語を受け取った私が「あしたの君が笑えるように」そして、「あなたはどうしたい」ということを問い続けることが必要だろう。

 What is to be done?

 

(1)ドゥルーズの世界を信じることに関する素晴らしい分析については次を参照。Thiele, Kathrine (2010) " 'To Belive  In This World, A s It Is': Immanence and the Quest for Political Activism," Deleuze Studies, 4(suppl), 28-45.