博士論文・宮沢小春・マッチングアプリ

 みなさま、おばんです。

 年末になったので、今年の取りまとめを書こうと思います。タイトルにした通り、2022年はこれに凝縮されている、と言ってよいものであった。三単語タイトルでお馴染みのローティの『偶然性・アイロニー・連帯』にほぼ重ねられるものであろうとも思っている。ローティの著作では、偶然性を基礎として、アイロニーと連帯が導出されている。公私二元論という点において、私はローティアンではないが、概ね方向性を共有している。今年度中の提出を目指していた博士論文は、そのための提出期限にあえなく失敗することになったが、ニーチェフーコードゥルーズ、ジェイムズ、ホワイトヘッドらに依拠して議論を組み上げてきたウィリアム・コノリーについて論じるものであり、彼の議論の焦眉の一つは偶然性にあったと言ってよい。また研究をする人によって異なるところではあるが、私は研究内容と私自身の実存や信念、エートスを非常に近しいものと捉えており、存在論的な偶然性と主にニーチェフーコー的な自己の技芸を実践することが生活の基底をなしている。そのため、他の二つの要素である、宮沢小春とマッチングアプリそれ自体と博士論文のあいだには内的な繋がりはないものの、これらに関わることは、研究していることを必然的に通ることになる。以下で簡単に時系列的に振り返ることになるが、宮沢小春とマッチングアプリとのあいだには論理的な、というよりかは時系列的な繋がりがある。それは、宮沢小春を推しと見なすことで陥ってしまったある種のガチ恋的な心性に精神的な不健康さを不気味に思い、では、と心理的障壁を取り除いたり、いつの間にか取り除かれたりすることによって、いたったのがマッチングアプリだからである。これらもローティのタイトルに重ねられるように思われる。宮沢小春という推しへの接近は何か、ネットやファンダム文化で膾炙している批判や非難ではなく、良い話だけをしよう、肯定しようという言説に対して、アイロニーを徹底的に持ち込むことであり、それは同時に彼女やそうした言説を鏡にして、自身にもアイロニーを持ち込むことでもあった。またマッチングアプリはある種の連帯ともいえる。しかし、それはローティが目指したような連帯ではなく、資本主義と異性愛に貫徹されたものではあったが。

 さて、一応三つ並べてみたものの、博士論文は否応なくやらざるを得ないものであったため措いておくとして、特権的な地位を有していたのは宮沢小春だろう。そのため、彼女に即して振り返ることがおおむね2022年を振り返ることにも繋がる。そのために、時計の針を少し戻す必要があり、2021年の11月頃まで遡ろう。私は3月生まれということもあり、去年は20代最後の年であった。20代を総括してやろうと、東京ポッド許可局的に言えば、「忘れ得ぬ人」にお茶でもしましょうと連絡をするも、連絡が返ってこず、総括が失敗することとなる。そうしたぼんやりとした喪失感と並行して、アプリゲームとしてプレイしていたIDOLY PRIDEからリリースされていたアルバムを聞いていたところ、これが意外と良く、アニメやゲームをやっていたときには声優を気にしていたなかったものの、12月頃に声優をちょっと見てみようと思い、調べる。そして2022年へとかわるころに彼女に出会う、そう宮沢小春に。

 私のTwitterの過去のポストを遡ってみると、1/7に「宮沢小春さん、すごく顔が好きだったのでよしラジオにメールでも送ろうと思ったけど、なんだか8才も下の人にファンになることに自分の中の何かが歯止めをかけようとしている」というのがあった。なんだかんだ言いつつも、スタートラインが顔が好きかどうかなあたりが面白い。それはさておき、歯止めをかけることに失敗し、そのままずるずると引きずられていくこととなる。彼女が所属しているミュージックレインの三期生で行っている「ミュージックレイン3期生新番組β版」を視聴し、彼女のかわいさにぐったりするといういかにもなオタクな幸福感を覚えており、たぶん最もハッピーだった瞬間だっただろう。その後は、絶対に行くこともないと思っていた彼女が初めて出演する舞台や、4月からひと月半ごとに行われる三期生のイベントに今年はすべて通った。

 初速的なハッピーな時間はたいして長く続くこともなく、批判的に訝しんでいた時期のほうが長く、今もそうであるように思う。そもそも秋元康的なマッチポンプ的に構成された構造を嫌いだし、そうした露悪な構造がなくとも、多かれ少なかれ「女性」声優的な売り方がされることによって、演者らを構造的に非人間化・商品化していくような資本主義システムに対して批判的であったし、そして考えることをやめたかのように、水を差すな、肯定しようというネットの風潮も嫌いであった。端的に今年のことをまとめてしまえば、こうした複合物によって成り立っている彼女を取り巻く環境と私の感性や享楽との溝を確認し続けるだけであった。

 例えば、イベントを取り上げてみれば、基本的には演者がきゃーきゃーわいわい楽しいね、かわいいね、というのを見せるだけのものであり、表面的には笑えるものの、さーっと流れていき、比べることが望ましいかどうかはわからないが、好きなバンドのライブを観たり、本を読んだりしたほうが持続的な満足感や快楽を味わえた。そうした点で、私が感じる楽しさと提示される楽しさは非常に異なったものであり、まだマシな言い方をすれば、「あなたたちはベストなものを提供しているかもしれないけれど、私には合わない」というものであった。こうした溝は、今年確認し続けて最も悲しかったし、落ち込んだ点の一つ。おそらく私はこうしたものを楽しいと思える感性を人生のどこかで持ちえたはずだったが、それはどこかで否定的に切り落としてきたものであり、今そう思えるように規律訓練することは自分の感性をおそらく深刻な仕方で毀損することに繋がるということは容易に想像しえた。そうした切り離した過去が現在へと、急に顔を出してくる不気味な様と、おそらく埋まり得ない溝を直視することは非常に厳しいものであった。ローレン・バーラントが「残酷な楽観主義」というものを提起していたが、それにぴったりな状況ともいえる。ちゃんとした定義は省くが、私は宮沢小春を享受したいものの、そのためにはイベントなどを通らねばならず、イベントによって見せられる溝によってその享受が妨げられているという点で、残酷であり、同時にそれを離れられないという点で楽観的でもある。

 そうしてもう一つの問題がファンダム文化。推しなんてものができる前は、気味が悪いなと遠巻きに見ていればよかったけれども、まさか自分が巻き込まれることになろうとは思ってもいなかった。そもそも良いものと悪いもの、肯定的なものと否定的なものを截然と分けられると考えられる風潮と、ポストモダニズムずぶずぶの私が合うはずがない。そんなものを見つけたら、とりあえず崩してみるという習性があり、極めて相性が悪く、しかしそれをもし崩そうものなら、批判をするな、水を差すなと言われる始末。さて、宮沢小春は彼女の見た目から褒め言葉として、おしとやか、上品、お嬢様、大和撫子というのがよく挙げられる。これでもありふれてマシなほうで、「幸薄そうな顔で主張が弱そうで好き」というものまで見かけて非常にげんなりした。多くの人はそうしたありふれた言葉を褒め言葉、肯定的な言い方として用いているが、それを甚だしく疑問に思い続けてきた。それはあなたがた男性が理想とする女性像を投影しているだけであって、本当に望ましいのですか、と。肯定的なものを称揚しているにも関わらず、自分が投影している価値や基準に無関心で、規範的に望ましくない要素がしのばされていることに全く気付いていないあたりに、本当に呆れ、苛々していた。

 これらから鑑みるに、彼らが考えるところの否定的な態度を延々と抱き続け、一般的に言われるような「尊い」「生きててよかった」という感情を抱くことはほとんどなかった。そもそも後者の感情については、私の中に語彙としても存在していなかったけれど。宮沢小春にはまって、色々考えて悩んだ私は2月に、TBSラジオの生活は踊るの相談コーナーにメールを送り、パーソナリティであるジェーン・スーから次のような言葉をもらった。「地獄は楽しいぞ」、と。まあ番組のハッシュタグを見ていたら、考えすぎ、ただ楽しめばいいのに、気持ち悪いなどと散々なことを言われていたが。そうした点はさておき、「地獄」と形容された場所でなされること、それは自分の仄暗さを見つめ続けることであり、それとともに、自分が打ち立てたい価値と規範的価値、社会的な価値の三つを考量し、自己の技芸によって自己を組み替え続けることであったように思う。アップデートなんて言葉が膾炙するようになったがそんな便利で簡単なことではなく、ある性向がどこまで食い込んでいるのか、根深いものであるのか、そしてそれは変えられるのか、変えられないのか、変えられるとすれば他にも何を変えればいいのか、あるいは余波として変わってしまうものはなにか、こうした点を勘案しなければならず、そして重要な点として全ての性向が変更可能ではないという点である。ポストモダニズムへの批判として、全てを変更可能なものと見なしているという批判があるが、そうしたことを主張している人はほとんどおらず、むしろ変更に対して頑強に抵抗する諸要素、そしてそれに応答できないがために生じるルサンチマンニヒリズムに着目し続けてきた。そのため、地獄の歩き方と称して、ひたすら地道に何をどのように変えられるか、変えられないならばそれをどう受け止めるか、ということを繰り返していた。

 さて、これは今年会った人ないしは話した人によく聞かれることだけれども、そうやって私は批判ばかりをしているが、私自身の最初のきっかけとして顔があり、そもそも欲望の問題をどうしているのか、ということがある。まず一点目として顔について。現段階でルッキズムという問題を考える必要があるがそれは脇に置いたとして、彼女の顔を好きになったからといって、私が彼女の顔に何か言及しようとしたときに、彼らが使うような言葉を用いる必要がないこと。私が彼女の顔を好きだからといって、「おしとやかで上品な顔をしているから」という必要はない。面倒なときはとりあえず括弧に括っていわゆるという言い方をすればいい。第二に欲望について。この欲望といった時に何を意味するかは非常に幅はあるが、狭い性的な欲望から始めてみよう。推しとセックスしたいとか結婚したいとかいう人をまあまあ見かけることがあるが、私はそもそも挿入を頂点としたようなセックスを嫌悪しているところがあるし、それを抜きにした性交にしても特権視していない。また戸籍に結びついた婚姻制度も嫌いなのでない。もう少し性に関して緩く取ったときに、今年の11月ごろに彼女がミニスカートを履いた画像をあげていて、界隈が湧き上がっていてたが、私は服装として似合うねとしか思わなかった。ただ眼鏡姿をあげたときは、私は眼鏡好きということもあり、色めき立ったが、それが何か性的な欲望の発露だったかといえばわからない。最後に一番広く付き合いたいとか友達になりたいとかについて。付き合いたいとは思わないが、本好きだし友達にはなってみたいと思う。

 こうやって批判してきたばかりではあるが、最後に私が思う彼女の良いところを挙げておかねばならない。彼らが評しているような言葉を使ってはならない以上、別の表現を編み出さなければならず、それは何かということを数か月考えていたが、ぴったりのものがありました。慎慮 prudenceです。一般的に、勇気、節制、正義といった並ぶ徳として捉えられている概念で、慎慮のみでは優柔不断に陥ってしまうため、他の徳が必要とされるが、私はこの徳が一番好きだ。なぜならば、現代の多くの人が勇み足だったり、安易な結論を性急に出そうとしている点で、対抗的な価値を持つからである。

 宮沢小春の過去の発言を見ると、慎慮を読み取ることができる。例えば、いつかの配信で、自分が応援され、誰かを元気づける存在になったことについて、「こわい、いやこわいというのはちょっと違うけど」と話していた。また随分前の朝も140で宇佐美りんの『推し燃ゆ』で推しを背骨と表現されていたことについて触れつつ、「私も誰かの背骨になるかもしれないですし、そう思うとちょっと怖いですが。まあ、私が応援している側のときは、そこまで重く捉えていないというか、そんなに期待しすぎてないはずなので、ちょっと立場が変わっただけでちょっと難しく考えちゃうのかもですね」(2022/2/18)と話していたこともあった。また他の回では自分の好きな音楽に触れつつ、「もし私が音楽を紡げる側になれたとしたら、そういうような音楽をお届けできたらいいと思っています。秘密ね、こういうことあんまり言わないようにしてるんだ、まあ言ってったほうがいいのもわかるんですけど」(2022/4/20)と話していたこともあった。

 こうした発言を鑑みると、自分が他者に何か強い影響を及ぼしそうになることや、必ずしも達成できるかわからないことについて、非常に慎重な姿勢がうかがえる。本人はおそらくこうした側面を臆病さや優柔不断さと考えていると思われるが、私はむしろ慎重さ、あるいは慎慮する契機としてより肯定的なものとして思っている。こうした側面が見た目から想像される女性としてのつつましさや淑やかさに還元されない積極的な面だと考えている。

 こうして一年を振り返ったときに、初動のガチ恋的な状況から、溝を再確認し続け、その精神的不健康さから離脱することに成功した。そうした点で間違いなく契機となったのはマッチングアプリで人と会って話したことがある。10代後半から10年ちょっとくらい彼女がいて、数年前に分かれてひとり身になってから、ひとり身を謳歌していたが、年齢に基づいた社会的な圧というよりかは、単純に継続的に話ができる人がほしいという理由もあって、あとは先から述べているように不健康さから脱するためにマッチングアプリを始めた。当然始める前には、尊大な自尊心から随分と抵抗があったが、ついには11月末には課金までしてペアーズを始めることとなった。振り返れば、それまで予行演習的に無料でできるMatch-labやTinderを利用して、とりあえずメッセージをやり取りするということをしていた。そのなかで一人しか会うことはなかったが。

 ペアーズのほうは見ていると、Macth-labより当然人が多い、またTinderより治安が良い。その一方で、ディズニーとスパイファミリーとチェーンソーマンが好きですという浅瀬でぱしゃぱしゃしてそうな人か、カネコアヤノときのこ帝国が好きというそうした人々に回収されない私です、というポーズに見える人がいるように思われる。あとは近く結婚をとか、子供は欲しいですとか。この点は先述したようにそもそも戸籍に基づいた婚姻に反対しているので、首肯できない。くわえて、ペアーズでは相手と合っていると嬉しい価値観のような欄があり、そこでは怒ったりせず建設的な会話ができる人がいいです、と書かれていることが多い。私は怒ることはほぼない人間ではあるものの、感情と理性を対置するような考えはしないし、「建設的」であることがどこから密輸入されるのかについて懐疑的であった。そのため、ペアーズは人は多いけれど、まあ合わないだろうなと思うことが多い。そもそも好きになったから付き合うのであって、付き合うために好きになれそうな人を探しにいくということ自体が、私にとってあべこべではあったが。そうしたなかでも、ペアーズを始めてから最初にいいねをくれた人と随分と意気投合し、一度会ってからも連絡を取り続けていて、表面上うまくいっているように見える。

 これからよく話してみないとまだわからないところはあるが、私が何を話してもよく聞いてくれる。それは当然相手が配慮してくれる結果でもあるだろうし、ただそうした聞くという態度が何か男性の話を聞く女性として会得されたものであって、そうしたものの恩恵を私は与かっているだけのような気がして、居心地が悪くなっている。くわえて、とりあえずその一度会った人と話して、連絡を取り続けて満足していることや、人と付き合うなんて数年ぶりのことから、もしこのまま上手くいったとして、はて付き合うって何だっけと思っている。

 私がそもそも怒りとか懐疑心というものを原動力としている点で、今年起こった出来事のなかでそうした感情を抱いた点を挙げていけば切りがなくなってしまうので、こんなところで。他の細かい話は日記で書いています。私が宮沢小春と出会って、2月頃から何を思い続けてきたのかについて。初動の部分をあまり文章化していなかったのが惜しい。こうした主観的な経験の話ではなく、もう少し理論的な観点で、どのように推しやファンダム文化を見るのか、ということは、余力があれば別稿を書きます。

 こんなことを書き続けてなお、私は宮沢小春がどうなっていくのか、非常に楽しみにしているし、それを見届けたいと思っている。イベントに関しては、その感情よりも厳しさのほうが上回ってしまうのでおそらく行くことはないけれど。私の願望としては、小さ目の箱で彼女に朗読会をやってほしい。朗読コンテンツというもう一つの良かった点について、すっかり書き忘れているが。

 それでは。