2023年おさめ

 年をとって、ここ数年の記憶が平板化されているせいもあるだろうが、季節的な条件によっても時系列の感覚がかき乱されている。夏はもうどうにも手の届かないところにあるのに、前の冬はこの寒さのせいか手近なところにあるように感じる。こんな書き出しであっても、今年のことを振り返ると、おおむね二つのトピックしかなくて、内容に差し当たりはないのだけど。トピック1,博士号を取得、トピック2、数年ぶりに彼女ができて、それにまつわるあれこれ。この手の記事を書くときはいつもなら、筋道を大雑把にでも考えるところが、思い立ってえいやと書いているので、話がとっちらかりそうだ。

 まず博士号の取得。人文系博士号の取得を目指す人たちのための一つのサンプルとなる、まとまったエントリーを書いたほうがいいのかもしれないけど、それぞれが所属する大学の方針、指導教員の方針、本人の計画等があると思うので、本当にサンプルとして。私の所属していた大学、東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻相関社会科学コース、ここまで書くのは、大学の他の専行でどうなっているかわからないからであるが、博士課程では提出の前にプロポーザル、リサーチ、ファイナル、という三つのコロキアムが設けられており、記憶が確かならば、D2、D5、D7でこなした。そもそも5か年計画だったものの、結果からいえばそれは大失敗である。当初考えていた章立てからは大きく変わるものはなかったものの、D4あたりに、新しい物質主義をちゃんと調べて、そこでようやく全体をまとめる軸を思いつけた。それぞれの章を単体で書くこと自体は大変ではないだろうが、指導教員が「博論には博論の格がありますからね」というように、博論全体にふさわしいリサーチクエスチョンを立てたり、軸を発見したりすることが、何より大変だった。これが早くできれば、早く書き上げることに近づくのだろう。

 そのあとどうしていたかはあんまり思い出せないが、新しい物質主義関連を調べつつ、メインの章を作り上げていたように思う。結局、5か年計画の5年目までにできたのは、序章、終章を除いてメインの章である7章のうち、前半の3、4、5章ができていて、6章と7章のレジュメ的なものがある、それくらいだった。そのままD6でものすごい勢いで、先行研究や研究背景となる1、2章を書き上げ、そして残りの章を手掛けようとしたところで、夏となる。6年目で修了したい場合、私のコースでは遅くとも8月までには完成した原稿を用意していなければならなかった。これに失敗した原因は、梅雨明けの体調やら精神やらの不調にある。毎年そうなのだけれど、梅雨明けに体調を悪くし、くわえて執筆の追い込みの昼夜逆転が効いて、3,4時まで書く、遅く起きる、しかし夕方くらいまで眠くて動けない、そんなサイクルが体調不良と重なって、7月にほとんど進められなかった。何にしてもそうだろうけど、自分がどこで体調を崩す傾向があるのか、そしてそれをいかに予防するのか、ということが大事。

 見事、D6での修了を失敗して、ここからスケジュールがゆるくなる。D7の春学期修了に切り替え、夏に書き上げなければならなかった原稿が、2月締め切りとなり、のんびりと完成させ、ファイナルコロキアムを4月末に。そして、原稿を修正し、7月頭に大学に提出、9月頭に最終審査となった。最後のスケジュールの緩慢さあたりに、私のサンプルとしての外れ値感がある。

 ともあれまとめてみれば重要な点は次となる。まずこれがないとどうにもならないし、誰もが言うところではあるが、それぞれの章をまとめるリサーチクエスチョンや軸を発見すること。大学によっては、博論提出のために複数の刊行済み論文を課されることがあるが、私のところにはなかった。すべて書き下ろしというのは大変であり、一定程度あらかじめ手元にあるというほうが明らかに楽であるが、軸を発見してから書いた後半の章の道筋は比較的見えやすかった。それゆえ、発見が早ければ早いほうがいいといえるが、問題はこれをどう見出すのか、というほうだろう。果たして私がこれをどう成し遂げたのか記憶がないものの、ともかく、他人がどうこうというより、自分が心の底から面白いと思えるものを見つけようとしていた。

 次に、自分の傾向を知り、それに対策を立てること。私で言えば、夏場前に体調を崩しやすい、本を読んで原稿を投げ出してしまうこと、昼間はぐだぐだしてしまい日が暮れるころにならないと手をつけられないこと、などなどがある。これらの要因で、去年失敗したといっても過言ではない。みなさん、自分をよく知り、規律訓練しましょう。

 さてもう一つのトピック、彼女ができた。昨年のまとめでは、マッチングアプリをやり、などと書いていたが、そこまで時間を戻す必要がある。思い起こしてみると、心理的抵抗からマッチングアプリに慣れる期間が去年には設けられており、上記の緩慢なスケジュールが生まれたことから、さて本格的にやるぞ、と冬場になって始めたのであった。連絡を取り、会った一人と3か月くらい連絡をやり取りし続けて、結果としてそれは失敗に終わった。その一方で、Twitter経由で連絡を去年の12月に連絡をくれたのが、現在付き合っている彼女である。その後、一方ではマッチングアプリ経由の人と連絡を取りつつ、他方では現在の彼女となる人とも連絡を取り、ということを2月まで続けていた。ここの色々なやりとりのなか(その表面的な事柄はそのころの日記にあるので、そちらを参照)で、彼女となる人に傾いていき、めでたく付き合うこととなる。

 ここで面白かったことがあった。マッチングアプリ経由の人に一応、筋を通しておこうと「話したいことがあるのですけど」と連絡したところ、あちらからも同じ旨の返信があり、「彼氏ができたから連絡ができない」とのことであった。私のほうも「実は彼女が…」と切り出した。世界にすべての事柄こんなにも平穏無事に、丸く収まることがあるのか、と笑ってしまった。

 ここまで、それはまあ本当にてんやわんやがあったものの、特に書く気はない。ただ一つ書くべきことがあるとしたら、関連することとして宮沢小春についてだろう。付き合った当初、推しがいようと何も気にしないと言っていたのだが、3月頃に彼女の家にお邪魔して、そのことを日記に書き、さらに日記で彼女との出来事に並列するように、宮沢小春のことを書いたら、大意としてめちゃくちゃ嫌だと言われたことがあった。それなら、と私が半ば過剰に反応し、さっぱりと取りやめ、宮沢小春にまつわる去年からの騒動が思わぬ幕引きとなる。今年に入って、さらに推しに関する議論は白熱しており、私も取りこぼした疑問が多々あったけれど、そんな幕引きで私は全く答えを出していないし、出す必要もなくなった。

 彼女は、自身の性質としてメンヘラではなくヤンデレだ、と言っており、私のこの関係に置かれた状態は、ストックホルム症候群のようではないか、と思うこともたまにあったが、まあそれでもいいか、と開き直っている。私自身がやるべきことは措いといて、重要なことは当然他の人が評価するような何かではなく、彼女の論理であって、それにただ向き合うこと、つまり私がそれをどのような論理に従って、理解し、応答するか、である。これが条件なのであって、そのなかで私の領土やルールを作ること、そして私たちだけのルールを作ること、それが自由であって、楽しい。

 別にここまでが序章であった、というわけではなく、ルールを作ること、それが自由であって、そして美的なものでもある、という点で私の傍にあった曲を思い出し続けていた。前から気づいていたのだろうけど、PtMだけではなく、どの門田楽曲でもこの点を示し続けていたのだ、と再確認していた。

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 それと同時に、今振り返ってみると、「でも、君は許してくれたから 嬉しかった」という歌詞はあまりにナイーブで簡単に受け入れることはできないけれど、「僕はいつも祈っている そして幸せになる 世界中のレイプ犯と同じ身体の仕組みで」という歌詞はその通りで、本当にまさにそうだ、としか言いようがない。重なりの耐え難さと私自身のあいだを行ったり来たりしていた。これに限ったことではないが、一般的に存在する、憎くて、避けたいコード、例えば、「彼氏」と「彼女」という言葉に「男性」と「女性」が割り振られ、機能するコードを取り上げてみても、それらに縛られたり、換骨奪胎したりもしていたように思う。

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 連想的に書いていたら、着地点を見失ってしまったし、くわえてもっと書いてもいいと思えるようなことがあった気がしたことも忘れてしまった。

 日記を書いていたら、誰かに声をかけてもらえるかもしれないので、出会いに困っている人は、日記を書きましょう。以上。

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