皇紫音以後の世界〈1〉

 タイトルとしてつけた『皇紫音以後の世界』について語る前に、次の命題を立て、解明することによって、このタイトルに至った理由を述べたい。

 「ポスト皇紫音とは何か」ということである。

 しかし、私はこの命題を次の二つによってすぐさま粉砕することによって、タイトルに戻りたい。何故なら、この命題はあまりにもふさわしくない。恐らく語ることすら許されないからだ。

 しかし、この命題について語る前に「ポスト」という言葉について、誤解が生じないように明らかにしたい。

 「ポスト・モダン」に関するConnolly(1988)の説明から参照したい。(こうした政治思想家から説明を試みてしまうのは申し訳ない。私がそこらへんに従事しているため)

 Connollyによれば、ポスト・モダンとは、近代(モダン)であることの典型的様式の一つであるという。すなわち、旧近代、近代という統合的なモダンの形式のなかで、一部の廃棄と一部の継続としてポスト・モダンは現れる。ここでいう「ポスト」とは、完全な「~の後」という意味ではなく、修飾する「~」の一部を引き継ぎ、そして場合によっては、修飾している語の意味を深化させる意味がある。

 さて、ここから二つの意味で命題を粉砕したい。

 第一に、皇紫音をアニメキャラクターとして捉えたときだ。彼女をアニメキャラクターとして捉えたとき、命題は次のように解釈されるだろう。

 皇紫音がアニメキャラクターとしてのある種の型を生成し、GJ部放送あるいは、連載開始以後に彼女の型を中心として、他のキャラクターが生成されたかどうか、ということである。

 しかし、このことはどうにもありそうにない。何故なら、贔屓目に見たとしても、皇紫音は過去にいたキャラクターのよくあるモンタージュでしかない。彼女は「黒髪ロング」「知的である、しかし、一般常識がない」「友達が少なく、畏怖される」等々。あまりにもいそうである。

 皇紫音自体がポストそうしたキャラクターの一類型なため、こうした意味から命題は却下される。

 第二に、皇紫音を実在して存在すると捉えたときだ。このような解釈は、第一の解釈の変奏でしかないかもしれない。

 すなわち、彼女に内在する良さ、あるいは私が彼女に対して下す良さを引き継ぎ、あらわれたキャラクターがいるのかということだ。

 いわゆる「俺の嫁」といった表現に近いところだろう。

 しかし、これはないと言いたい。だが、これは私の実感でしかない。

 また全く別の表現をすれば、確かに彼女はアニメキャラクターではあるものの、ある種私たちに経験され、存在すると措定してしまったとき、未だに確かに存在するのだ。(極めて曖昧に存在という言葉を用いて申し訳ない。これは、一つのコンフェッションだ)

 だから、こうしたなお生きられる経験として存在するものに対して、「ポスト」という言葉を私は用いることはできない。唯一の存在である。(そして、これもコンフェッションであり、願望でもある)

 第一の意味は、批評としての命題の却下だが、第二は、願望でしかない。非常に根拠薄弱だ。

 さて、タイトルの解説をしよう。こんな命題を用意して却下してみたものの、特に必要性はないかもしれない。第一の要素を否定したかっただけだ。そして、伊藤計劃以後という言葉に被せたかっただけだ。

 だが、ここで明らかにしたいのは皇紫音そのもののポスト性ではなく、皇紫音という存在としての事象が、特異点として私に何を残したのかということである。彼女は、私に何をもたらし、残し、そして、もたらし続けているのかということである。こうした意味では、「私自身にとって」の「ポスト皇紫音」という意味で、「ポスト」という言葉を用いることは恐らく正しいだろう。

 このように用いたとき、タイトルをさらに明らかにすれば、彼女は、私のなかに何かあったを廃棄ないし、拒否し、さらに何かを進展、拡張してきたのかもしれない。そうしたなかで私にもたらされた新たな世界は何かということを探求する。

 何故このような怪文書をまた生成することになってしまったかといえば、ふとTwitterのアイコンを変更しようかなと数年ぶりに思ったものの、適当なものが何もなかったことが発端となっている。つまり、私自身にとって皇紫音の以後の存在が何もなかったのである。これは、非常にはっとさせられてしまったし、結局「皇紫音」という存在は何だったのかということを、大真面目に考えなければならないと思いつめてしまったことに起因する。思いつめてしまっている。とても。

 皆目この「世界」が何かということについて、検討がつかないため、またどこかで再び続編を書くことにしたい。