WIXOSSを少し考える

 先日GJ部の特別番組としてGJ部@やりましたね。最高でした。こんばんは。

 日々「GJ部」とはなにか、「GJ部魂」はなにかということを考えてます。

 何やらGJ部合同誌というものに参加することになりました。ブツはまだ全く書いていないけども。

 

◆WIXOSS面白い。これをどうやったらウィクロスと読むのかさっぱりわからないけど。

 最新話であきらっきーが負けた時のブチ切れた感じは非常に人間味溢れていていいですね、最高ですね、僕は好きです。

 さて作品中では少女たちは「無限少女」を目指して戦うわけですが、まずこの無限少女と聞いて、ニーチェかよとか適当なことを思っていたが…

 今回の話を見てもしかしたら本当かもしれないということに気づいてしまった。

 以下ざっくり考えただけのこと。

 「疎外」というとマルクスをまず思いつきますが、その前に考えた人がいます、そうヘーゲルでした。

 ヘーゲルの「疎外」とは次のようなものです。

 『人間が自分の内面の力を、そして、まだ可能性としてだけ自分のうちにあったかたちを、外の世界に浸透させていって、そのなかにあらわすこと、いわば自分の映像を実現すること』

 これを「対象化 Gegenständlichung」と呼びます。またざっくり言ってしまえば「疎外」とも言えます。

 例えば、私はいまこうやってブログを書いていますが、書いていくほどに、同時に自分のうちにあったブログを書くという実現の可能性は失われていくことになります。それは否定的な意味ではなく、頭のなかのイメージにすぎなかったものが、ブログとして独立していくことを意味しています。完成したもの(対象 Gegenstand)は、自分に「たいして gegen」「立つ stand」、独立した存在となっていきます。

 もちろんこの過程で独立した存在となったものは、自分が書き上げたものにも関わらず、書こうとしていたものとは違い、自分で書いたものではないようなものとして立ち上がります。このことを、「疎外 Entfremdung」といいます。

 主体は対立した疎外に立ち向かうことによって、反省を迫られます。ざっくり便利に使いますが、自己の現段階の能力否定してくるもののさらなる否定によって自己を高める事が可能になる、止揚することが求められます。疎外に対して「反省 reflexion」が必要となります。

 対象化、そして反省の循環が求められます。

 

 前置きが長くなりましたが、ウィクロスの話。

 少女たちは基本的になんらかの願いを持っています。その願いを対象化した存在がルリグと捉えることができるでしょう。ルリグは少女らの願いであり、少女から疎外された存在として立ち上がります。

 だからこそ、眼鏡の子(名前忘れた)は負けたときに、彼女の願いを現前したルリグが消えることによって、彼女のなかにあった願いの可能性は消えてしまいます。だからこそ、彼女は友達のことを忘れてしまいます。止揚の契機が失われると同時に、彼女のうちの可能性はルリグという対象にあったためそれも失われます。いやー厳しい。

 ここでわかったことは、ウィクロスで求められていることは「反省」が求められているということです。

 ここでわかったのはルリグとはなんだったのかということだけ。あと残るのは「無限少女」になるための条件が三勝だけではなく何かということ、戦いとは何を表すのかということでしょうか。

 前者についてですが、ここで登場ニーチェさん。ざっくり言えば対象への強い肯定ではないでしょうか。

 後者はやはりざっくり言えば宇野氏が「ゼロ年代の想像力」で言っていたような、サヴァイヴ世代を表象しているのではないでしょうか。

 と、考えていたことは以上です。

 

GJ部論を延々と繰り広げているわけですが、それについても後日簡単にまとめられればいいかなと思います。

 なんでこんなことになってしまったかを考えずにはいられない。

 そういえば、ズヴィズダー考察もすっかり忘れていた。あれは現代版階級闘争だよたぶん。ヘゲモニーと闘技だよたぶん。

 

 ではでは。