Wake Up, Girlsから考える現代

 WUGをアニメとして毎回わりと褒めていたのにヤマカンにブロックされてるマンです、こんばんは。

 毎週Twitterのほうで、少し考察していたのでそれをまとめようかと思います。ほとんど作品中で語られていたので、そこまで書く必要はないようにも思われるけども。

 なにが驚いたって、想像していた通りの内容でしかなかったし、さらには311とか、ポストモダンとか、代替可能な社会での個人のあり方とかそれっぽいもののオンパレードだったこととか。

 

◆あらすじとかは公式サイトを御覧ください。

 簡単に書いていこう。I-1のみんながブラック企業よろしく唱えている「愚痴らない、考えない、休まない」という合言葉や、社長が言っていた「君たちは人間である前にアイドルという言葉」。そう彼女らI-1は商品としてのアイドルという表象である。

 私達は機械ではないから無論そんなことは出来ない。しかし現代ではそれが平然とまかり通っている。私達は労働力という商品であり、そこに人間性といったものや個人といったものはない。だれもが同じで代替可能、社会の歯車。それはI-1の描写にも現れていただろう。そう、彼女らはこの資本主義社会を見事にあらわしている。

 だからこそ、I-1クラブは資本主義然として、仙台にライブハウスを、全国にライブハウスを建てるという、よく言われるような風景の画一化ということが行われた。

 I-1は資本主義の象徴であり、物象化された関係であり、商品化した個人だ。そんな代替可能な個人であり、確証の得られない実存。みんながみんな自らのアイドル=商品としての価値を高めることにしか関心がなく、競争のなかでしか成り立たない関係。だからこそシマダマユはやめた。

 

 対するWUGは正反対をゆく。舞台は仙台。時は311から三年後の2014年。

 復興のなかで共同性―現代において剥奪された―をいかに取り戻すか、またシマダマユが社長に対して放った「私達はアイドルである前に人間です」という言葉を筆頭に、I-1真っ向から対立している。

 WUGはI-1のような、代替可能な個人、入れ替わるメンバーというものを志向するのではなく、「この7人だからこそWUG」というものを志向した。

 シマダマユの発言に見るように、彼女らはアイドル=商品のような人間性が剥奪されたものを目指すのではなく、主体的な個人としてあることを目指した。

 

 皮肉なことにも予選では、彼女らが人間性を獲得しようとしてきた成果が点数として客体として評価されてしまった。それは結局はI-1とは変わらないことだ。なぜなら点数のなかには人間性はない。

 私は野球が好きなのでそれで例えてみよう。ある日の試合結果が5-2とかだったらそこには点数としての勝ち負けしかない。良いプレーがあったとか、ホームランを打った時のあの選手の表情が良かったとかそういった人間味があるものはない。

 だからこそ、皮肉であった。WUGはI-1と違ったアイドルを志向していたはずなのに、いつの間にか同じものにされてしまっていた。

 

 しかし、最終回は違った。結果としては負けた。だが、WUGは目指していたアイドル、また主体的な個人というものを獲得することに成功した。予選のような皮肉も回避されたのだ。彼女らの過程は点数のような客体で表されることもなく、観客を喜ばせるという商品としてのアイドルではなく、人間としてのアイドルを表現することでそれを得ることが出来た。

 それが最終回の彼女らの発言にも表れている。「この7人だからこそWUG」なのだった。また社長の「アイドルは物語」発言からもポストモダンが見え見えだし、兎も角そんなようだった。

 

◆WUGは現代のそのものを表しているし、ヤマカンは悪い意味でも良い意味でもやってくれた。悪い意味でもというのは要素を詰め込みすぎて、まんま過ぎたという。

 I-1という表象はまさに現代の社会そのものだ。私達はただの労働力として、社会にこき使われる。代替可能で、いつでも切り捨てられる。私達が誰であるかなんてお構いなしだ。

 そんな社会のなかでいかに生きるかということをWUGは表している。

 ここまで書いてやはりありきたりだし、書く必要もない気がした。こんな個人の実存性が不安定な社会でいかに生きるかなんて。しかも、311以降において。

 今度は気が向いたらズヴィズダーやります。まとまるかはわからないけど。

 

 ではでは。