小説の小説の

 こんばんは。

 いつの間にか3月です。私の長期休暇も残す所はあと半分。

 参考文献消化に疲れ、円城塔烏有此譚を読んでいたところ、ふと物書きをしてみたくなったので書いてみました。円城塔の本を読んでいたら、それみたいなものが書きたくなってしまうのは愛嬌。では行ってみよう『小説の小説の』

 

 

小説。そういった名で語られているものが世の中には大量に流布されている。小説、この言葉の定義には諸説あり、ある人が言うならば「私が小説といえば何でも小説になる」というのだ。なるほど、頷けるところが大いにある。

 だからって、矢鱈滅鱈に小説を増やしてもいいわけではないだろう。あれも小説、これも小説。「トイレはきれいに」「おさない かけない しゃべらない」「食べる前にはいただきます」「晩御飯のおかずからハッキングまで」等々、これらも小説だと言われてしまってはたまったものではない。

書いた当人が「これは小説です」と胸を張り宣言することは一向に構わない。何せ僕は人のことにはそこまで口出しをしない。要らぬところに首を突っ込んでは怪我をする、当然のことだ。これは実地経験からもすでに立証されている。ひょいと出てきた首には、人はぽんと一つ叩いてみたいと思うのが性分だ。勿論そのぽんと叩く加減は人様々であるし、また一度とは限らない。それも人の性分だと言ってしまえば、それまでだし、兎も角仕方がない。

この定義をそのまま捉えるなら、あとはエントロピーよろしく無尽蔵に小説が増えていく。毎日どこかの企業から公式に「これは小説です」と箔をつけて売り出しているものに加えて、昨今のインターネッツ事情を鑑みると幸か不幸か、繋がるはずのなかったものが繋がってしまい、僕たちの手元で主張を繰り広げる輩も大量に増えてしまうことになる。

 中には殊勝な人間もいて、「こんなものは小説ではない。こんなものは未完成だ」と声を張り上げて昨今のこの流れに歯止めを掛けようとしている。それが本当に殊勝なことで、自分のものにのみ主張を下すならばいい。しかし、人間は飛び出てきた首には何か一撃を加えてやりたくなる性分だ。小説も小説で黙って一箇所に整然と並んでいられるような大人しい生き物ではない。図書館の指定された棚、小説と指定された棚に収まっていることが出来ず、零れ落ち不幸な人間に出会ってしまうこともある。整然とされているものは崩れるし、積み上げられている小説たちもやはり崩れ、裾野を広げることに暇がない。

 そんな中での不幸な出会いは少なくなくあらゆるところで散見される。「これは小説ではない」と自分のなにかに主張を下すまではよかった、しかし、どこからか転がってきたそれに下すことは不幸としか言いようがない。勿論それを性分だ、と言い切ってしまうには充分だろう。それでも、この出会いは不幸でしかない。ある少し殊勝でない人の一言のために、小説もそういう性分だったのだろう、自分の前に飛び込んできた、その頭に一撃を与えてしまった。そうしたら発した当人も黙ってはいない、またそれに対して一撃を加えてしまった。

 これは非常に悲しいことに、誰かが小説を定義したその時から、それは長い長い殴り合いが現代に至るまで続いている。観測されている限りでこの闘争は旧約聖書の時代まで遡るとも、古事記まで遡るとも言われている。無論それは終焉を告げられるようなものではなく、また縮小されるようなものではない。どうやら全てはエントロピーの支配下にあるのか、はたまた小説に関わってしまったものはエントロピーの影響を受けてしまうようだ。これに関しても諸説あり、ここでもまた枠外の闘いが繰り広げられていることは言うまでもないだろう。

 ここで「小説なら小説らしく終わったらどうだ」という意見がある。僕自身もそれは尤もだと思う。しかし、この不用意な至極当然らしい台詞というのは、殊勝な発言をするものも、小説自身も聞いていて非常に心地の良いものではない。この発言もすべからく一撃を喰らう。

 曰く「始まりがあったから、それに対しては終りがあるほうがおそらく無難であるような場面で終りが発生しているだけであり、すべからく起きるような事象ではない。多くの作家が実際に小説の終りを拒み、あるいは拒まれ、どちらともなく宙吊りのまま放置されている現状も多くある」という主張だ。つまるところ彼ら彼女らの言い分は、終りはそれらしいとこに、無難だから起きるだけであって、必ずしも起きるわけではない。だからこそ、彼ら彼女らの間で終りを拒み、拒まれているというのだと。

 これも至極当然らしい解答だ。彼ら彼女らの言い分に従えば小説ですら終るものではないのに、それに付随する小説か/小説でないかなんて問題は終るはずはないというのだ。そもそも何千年も続く問題がこんなところに終りがあるはずもなく、だから当然のごとく今後も続いていくという。

 しかし、僕個人としては終わってもいいのではないかなと軽々しく思うし、またこの文章も小説でいいのではないかなと、これもまた軽々しく思う。またこれに対してもどこからか一撃が飛んでくるだろう。それこそ不幸というものだ。ここまでが小説ですといって終わらせていいような気もするし、いやいや、そうでなくて今書き足したこの一文でもって小説ですといって終わらせていいような気もする。

 なんといっても僕自身がもう面倒なだけだ。こうした議論は馬鹿馬鹿しいものだろうか、多分。始まりがあるものには終りというものがあって相応しいだろうし、始まりが曖昧だったならば、終りも曖昧となってしまうことは仕方がないことだろう。