世界の終わりあるある

 半年くらい前に書いたものを載せます。

 終わりらへんが性急になってしまっただけ反省点。だがしかし、もう手がつけられない子になってしまいました。

 僕の青春というのはBurger Nudsだったりセツナブルースターだったりするもので構成されているので、書く時にどうしても色濃くでてしまいます。

 今度セツナブルースターの十二秒で何か書けたらいいな。

 「君と僕の間は十二秒くらい」

 このフレーズについて最近は考え続けている。

 では、世界の終わりあるあるです。

 

 

ピピピ・・・ピピピ・・・と目覚ましが無機質な音で目覚めの到来を告げている。時刻は八時半。ちょうどいい時間だ。さっと起き上がり身支度を整のえ出かける。今日は授業間に、長く時間があるから暇つぶし対策としてアコギを背負う。カバンは自転車のかごにいれて準備は万端だ。目指すは大学、その前には自転車で20分もかかる最寄とも言えない駅。そして、電車に揺られること20分。また自転車に乗って大学まで10分。そして願うは二限目の授業に間に合うこと。

 耳は音楽で、口はマスクで外界と遮断。頼るのはこの視力が0.3にも満たない視界と寝ぼけた直感のみだ。iPodのホイールをくるくる回してTHE NOVEMBERSにあわせてParaphiliaを聞いていく。高校生の頃はpicnicばかり聞いていて、これが好きな僕にとってParaphiliaなんてノベンバじゃないとか言ってまったく見向きもしなかったが、人の好みはうつろうみたいで今は一番このアルバムを聞いている。To (melt into)(Two) into holyが出たときもこんなのは違うとか言っていた記憶がある。この発売日あたりでこの二枚を一緒に買うと二枚のCDをスリーブがついてきて、さらにポスターがついてくるというアイドル的商法(アイドルはもっと酷いことをやるけども)をやるなんて、とかぶつくさ言いながらきっちり買ったことが懐かしい。

 秋らしい高く青い空を眺めながら駅へと向かっていく。こんな情景を拝むことができているあたり、やはりどうやら僕にも今日がに与えられているのは確かなようである。こうして僕はまた目覚まし時計に起こされ沈んだ太陽の陽に照らされているのだから。

どこかの哲学者が「私が何かを認識したといえるのは、私が「私は太陽が昇るのを千回見た。」のを確認する時ではなく、「明日も太陽は昇るだろう。」と判断するときである。」とか言っていた気がする。

ただ今日、とか明日とか、昨日というのは滅法抽象的で言葉的にしか捉えられないものだ。しかし、どうしようもなく日々に絶望している僕にさえ今日というものを与えてくれる時間ってやつは神様よりも平等で、そして神様よりもひどく恐ろしいやつである。時間というやつはいつになってもその歩みというものを変えようとはしない。

まだ平日は大学にいって帰り、家でぼーっとしてから寝て、休日はアルバイトについやしているだけの僕の日常のほうが劇的に見えてしまうほどにただ至極淡々と進んでいく。ただ僕よりは確実に勤勉にその歩みを進め、進撃をやめようとはしない。時間は着実に、そして確実に、すべての物質、すべての現象等しく攻撃を浴びせていく。

 道の真ん中をふらふらと歩いている耄碌な老人にだって僕はいらつきなどしない。なんせ僕には時間が欠伸をしてしまうほどに、たっぷりと時間があるのだからね。駐輪場に自転車を停め、カバンをギターの変わりに背負い、ギターを手にぶら下げ改札を通った。

 

          ※

 

0時。授業終わりのチャイムが鳴る。教授の「今日はこれまでです。」という声とともに手早く荷物をまとめて教室を出た。

 さすが11月、冬まじかといったところだろうか。正午になっても気温がたいして上がらず、肌寒く感じられる。それでも僕は自転車を漕いで学校をでて公園へと向かった。

 少しこうやってゆっくりとでも自転車を漕いで運動をすることで、身体があたたまり日向では調度良い気候だった。

 手早く食べられるものを、と大学近くのコンビニに立ち寄って、おにぎりを二つとペットボトルのお茶を購入した。

 コンビニの自動ドアをくぐる時にちょうど黒い学ランに身を包んだ男子学生二人が僕がさっきそうしたように自動ドアを談笑しながらくぐってきた。

 「明日世界が滅亡するんだってー。」僕から見て右側にいる髪を短く整えていかにも高校二年生といった風体の子が言った。「まじで!?ラッキー!明日テスト面倒だったし、それにあの先生宿題忘れるとすーぐ人のこと叩くし、いつの時代の教師だってーの。」なんて左にいるこれまた高校二年生になり、秋口にも差し掛かって高校に無駄に慣れきってしまったがために、だらしなく制服を着ている子が言った。

 彼らが呑気にそんなことを言っていられるのは、それを世界の終わりを冗談と認識し、どこまでも日常が続いていくということを間違いなく確信しているからだ。彼らはきっと世界の終わりなんて話の種程度にしか思っていないだろうし、数ある日常の話の中でも同列に話していることは確かだろう。

 よくテレビ番組で「明日世界が終わるとしたらあなたはどうしますか?」なんて質問がされるが、司会者たちは世界が終わることなんて毛の先ほども思っていないし、ともすれば世界の終わりなんて誰が信じるんだと心の底では笑い、表面上では楽しんでいることにしている。そして、この仕事が終わって帰ったらああしてこうしてなんてことを考えているのだろう。こんな帰ってどうしようなんてことを考える事自体彼らはいつだって日常が続くことを確信していることを表している。

 世界の終わりの話なんて腐るほどにどこにでも転がっている。ヘタをすると国家総出になってそういった話を仕掛けてくるなんてことがある。インターネットをつけてしまえば、本を開いてしまえば、いつのどんな時代だってあふれている。だいぶ前に起こった大地震だってとうとう世界を終わらせることは出来なかったし、僕らが待ち望んでいた隕石がロシアに落ちてきたって全く足りなかった。せいぜい、一日や二日、人々が騒いだだけで、あとは隕石の話はウォッカ代に消えてしまっただけだ。

毎日世界の終わり。昨日も世界の終わり。今日も世界の終わり。明日も世界の終わり。それでも、僕らの日常は続いていってしまっている。

 だからこそ、僕らは凡庸に永遠に続いていくかのように信じて疑わない日常に、ありふれた刺激、それこそ日常にありふれているようなものではなく、最高な刺激を渇望している。だから、僕らはいつでもどんな形であっても世界の終わりを望み、テレビのチャンネル、終末にまつわる神話、直径数100mにも及ぶ隕石、未知の生命体、未曾有の大地震、放射能までも消化する。だから、世界の終わりをどこまでも楽しむ事ができる。

 もし、そこいらの通行人でもいいし、さっきの男子高校生二人組でもいいから捕まえて「明日世界は本当に終わります。あなたはどうしますか?」と真に迫って質問をしても、せいぜい面白い解答をしてくれるのが関の山で、彼らはきっとその後は、「あの質問をした奴はなんだったのか。」とこれを日常の話の種にして戻っていくだけだろう。

 さっきの高校生たちだってきっと、明日も変わらずに学校に登校し、面倒だなーとか言いながらテストを受け、隕石だったり、フォトンベルトだったり、はたまた僕の想像が及ばないような形で、ぷつりとテレビの電源を落とすように簡単に世界の終わりを迎えるの違いない。

 だがそれでいい、それでいいのだ。

 足りないけど、確かに大きい一発であったあの3.11の地震程度でも我々の日常というものは木っ端微塵、跡形もなく、なんとでも言えるだろうが、綺麗にすっかり壊れてしまうことに気づいてしまった。日常というものの脆弱さに気づいてしまった。

 だがそれでも日常の力、いや人々が日常を望む力というものは偉大かつ強大であって、また違った日常を、前の日常は戻らないとも知りつつも、すっかり創りあげてしまった。

 だがそれでいい、それでこそいいのだ。

 

                      ※

 クロロフィルが順調に分解されている木々で覆われた自転車で通りぬけ適当なところに停めた。途中で平日だし働いてていい時間ではないの?と思われるジョギングをしている中年のおじさんだったり、動物園の檻をそっくりカートのようなものにして、そこに動物のような園児たちを詰め込んで歩いている先生たち、大きな金色の毛をたずさえている犬を散歩する老夫婦にすれ違った。

 暇つぶしに最適な公園。自転車で大学から10分程度で少し逃避するのに最適な公園。ここの公園の良いところは勿論この最適な距離と暇つぶしにうってつけであるということもあるが、程よい傾斜をもった、しかも芝生に覆われた丘があるということだ。まっ平らじゃ寝転がってもなんにも快適ではない。最適な傾斜、そして芝生があるということが重要なのだ。それによって、快適な寝心地を実現している。

 持ってきていたギターを肩からおろし芝生の上に置き、僕もそれに沿う形でゆるくりと芝生に寝転んだ。

 午後の陽気で薄汚れた太陽と視線があった。白詰草、猫じゃらし、その他もろもろの草草。土と草の冷たさとまだ仄かにあたたかみを残した空気が心地よかった。

 太陽から目を逸らし、右へ目をやると高校生のカップルが仲良くキャッチボールをしている。数10mは離れているだろうに、キャッチボールを中断してまで、彼らがこっちを訝しむように見ている。左に目をやれば下校して集まった小学生たちがボール遊びをしている。全く今日はなんでこんなにもボール遊びばかりなんだ。

 このご時世、きっと見続けているとどこからともなく通報されるかわかったものではないから、程々にして、起き上がりあぐらをかいた。背中やら髪にくっついてきた枯葉を手の平に集めてふーっと飛ばすと、秋を感じさせる風が上手く運んでいってくれた。

 アコギをギターケースから取り出し、カポを3フレットにセット。昨日ちょうど覚えたBurger Nudsのタネリを弾いてみた。普段エレキギターしか弾かないせいか、56弦が上手く抑えられなくてミュートともつかぬ微妙な音が響いたり、はたまたビビってしまって上手く鳴らなかったり。それでもポロポロと青い空に公園の声と溶けていった。

 『綺麗な心がここにあるよ。生きていくには邪魔なくらい』

 途中でフレーズを忘れてしまい弾くのをやめて立ち上がった。時刻は四時半。帰りのチャイムが辺りに響く。この公園のチャイムだけでなく、街中のチャイムが一斉に鳴いている。学校でも今頃授業開始のチャイムが鳴っているだろう。

 チャイムが通りの喧騒、子どもたちの遊び声、それを迎えにきた母親たちの声、全てを巻き込んで広がっていった。

 ボール遊びをしていた小学生たちは帰ろうとしていた。一人はうずくまってしゃがんでいた。

 タネリの最後のアルペジオが遠巻きに世界を通して聞こえてきている。

 『みんなのせいだろ』

 頭から足の先まで全身が疼き、各所の疼きが互いに因となり果となり疼き続けているような気がする連続したクリスマスツリーの電飾が、どこかの電球が故障すると、みな一斉にきえてしまう、あんなような感じであった。

 『仲間外れで家で泣いてた』

 季節外れの電飾が芝生の上で立ち尽くし、あたりにはクリスマスソングではなくて、ただただ歪んだ音が漏れているだけなようであった。

 『薄紫の太陽揺れた。太陽揺れた。』

 芝生の頂上と世界が直行する。世界と僕の視界が直行する。太陽が揺れている。